この記事は『エロい本棚アドベントカレンダー2022』の15日目です。

喫茶店や雑貨屋に飾り物として置かれている洋書があまり好きではない

一昨日、友人とこのような内容の話をした。

自分は割とあれの存在が許容できていて、たまに「なんでこんな本を置いてるんだ」などと、ひとりでいじって遊んでいることもある。ただ相手の気持ちがわかる部分もあった。このとき二人は何を見ているんだろうか。

無の本

いったんあれらのことをそう呼ぶ。

喫茶店や雑貨屋にディスプレイとして置かれているあれらの本のことだ。本棚に並べられていたり、テーブルの上で指輪やネックレスの台になっていたりして、オシャレさを演出するための道具として使われている。

同じような役割を担うものとして、プラスチックで作られた本の形をした物体や、装丁だけで中身が真っ白の紙束もまたあるが、ここではあれらは無の本ではないものとする。本として物語ることを求められて生まれたが、そう使われていないもののみを「無の本」と呼ぶ。

無の本たちのその内容や書かれた背景などには誰も、おそらくは置いた人すらも気に留めない。読まれること物語ることよりも、ただそこに置かれてあることを求められている。たしかにこれは一見して本来的ではないように思える。

無は無である

無の本の持つ内容や背景は捨てられ、消え去っている。内容は書かれているものの、物語るという本の機能は殺されている。それが寂しい。本のことを想えばこそ、憤りを覚えなくもない。

そういえば、神保町の古くからある書店がディスプレイ目的での洋書販売を開始した際には、賛否両論が巻き起こったこともあった。

ディスプレイ洋書 KITAZAWA DISPLAY BOOKS

それだけこういった本の扱われ方に対して怒りを覚える人がいるということなのだろう。筆者は怒りまでは覚えないので想像で補完すると、もしかしたら食べ物を粗末にしているのを見たときの「もったいない」という感覚、タブーの感覚に近いのかもしれない。

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