この記事は「夢小説 Advent Calender 2023」の7日目だよ。
夢小説 Advent Calendar 2023 - Adventar
みんなが日付埋めてくれて嬉しい!
今日は自己理解への恐怖について書くよ。またホラーな内容なのかな? わかんない。
真夜中さんが5日目の記事で書いていたように、自分を登場させるタイプの夢小説は、自分を含む登場人物についてある程度理解していないと書けない。「それっぽく」動かせないからだ。
読んでいて違和感のある文章は、エクフラシス出来ているとは言えない。クオリアには何も浮かばず、エネルゲイアを得られない。つまり現実化できない。それではだめなんだ(詳細)。
そういうわけで、夢小説を書くためには違和感なく自分を動かす必要があり、そのためには自分について理解を深めていかなければならないのだけど……なかなかそうするのが億劫なことがある。あるいは一定以上自己理解を深める気になれないこともある。それはなぜか。
「自分について知ることは別段怖くない」と思うかもしれない。でも、本当にそうか。
知ろうとしている対象としての**「自分」は「もっとも身近にいる他人」**だと表現されることがある。これはどういう意味か。人間はあえて知ろうとしない限り、自分についてもともとは何も知らないということだ。
いわゆる「他人」については知っている。自分ではない人だ。では「自分」とは何かを思うとき、なかなかうまく定義することができない。「XXという名前の人間が自分だ」と言うなら、ではXXという名前でなくなったら自分でなくなるのかといえば「そうではない」。名前以外に要素を増やしていって、「2023年12月現在この記事を読んでいてどこどこの部屋にいてそうしながら水を飲んでいて……というのが自分だ」と完璧に言ってみたとしても、それらの要素がなくなったら自分でなくなるのかを考えたとき、そうではないと思うはずだ。いつどこにいて何をしてどんな名前であったとしても、自分は自分だろう。ではその自分とは何なのか。言えない。
自分について何も知らないのだ。